中学歴史【開国と江戸幕府の滅亡】プリント・確認テスト用紙
中学歴史【開国と江戸幕府の滅亡】の確認プリントです。
中学歴史【開国と江戸幕府の滅亡】について
【欧米のアジア侵略】では、19世紀から20世紀にかけての植民地支配や勢力拡大の歴史を学習します。イギリスはインドを支配し、植民地支配の拠点とします。また、中国への侵略も重要な学習内容となります。イギリスが清と戦ったアヘン戦争(1840~42年)により、南京条約が結ばれ、香港が割譲されます。他にも、フランスなどが清を侵略することになり、この影響は日本にも広がることになります。
【日本の開国】では、鎖国によって外国との交流を制限していた日本が開国を行った経緯について学習します。1853年、アメリカのペリーが浦賀に来航し、日本に開国を要求しました。幕府は対応に苦慮し、翌1854年に日米和親条約を締結。これにより下田と函館の開港が決まります。その後、1858年に日米修好通商条約が結ばれ、関税自主権の欠如や領事裁判権(治外法権)の承認など、日本に不利な条件での通商が始まります。この条約はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結ばれ、不平等条約として日本の外交課題となります。
【開国後の政治と経済】では、開国後の貿易によって日本にどのような影響があったかを学習します。日本は鎖国体制を維持していましたが、欧米諸国の圧力によって開国を余儀なくされました。この開国の過程で国内の政治情勢は大きく揺らぎ、幕府の権威が次第に低下していきました。本単元では、開国から江戸幕府の滅亡に至るまでの政治的・経済的な変化について学びます。
幕府は1858年に日米修好通商条約を結び、外国との貿易を開始しました。しかし、この条約は不平等な内容を含み、また朝廷の許可を得ずに締結されたため、国内では強い反発が起こりました。このころ、天皇を尊ぶ「尊王」と、外国の勢力を排除しようとする「攘夷」の思想が結びつき、尊王攘夷運動が活発になりました。
幕府はこうした動きに対抗するため、1858年から1859年にかけて「安政の大獄」と呼ばれる弾圧を行い、吉田松陰ら尊王攘夷派の人物を処罰しました。しかし、これに対する反発も強く、1860年には水戸藩の浪士たちが桜田門外の変を起こし、大老・井伊直弼を暗殺する事件が発生しました。この事件により幕府の権威は大きく低下し、幕府は朝廷との結びつきを強めることで体制の立て直しを図ろうとしました。この政策を「公武合体策」といい、その一環として、将軍徳川家茂は天皇の妹である和宮と結婚しました。
一方、開国後の貿易による影響も大きく、横浜が最大の貿易港となりました。日本は生糸や茶を輸出する一方で、綿織物や武器などを輸入しました。特に、イギリスから安価で質の良い綿織物が大量に輸入されたため、国内の綿織物産業は大きな打撃を受けました。また、日本と外国では金と銀の交換比率が異なっていたため、日本の金貨が大量に流出する事態となりました。幕府はこれを防ぐために小判の質を落としましたが、その結果、物価が急激に上昇しました。
【江戸幕府の滅亡】では、江戸幕府が滅亡するまでの経緯を学習します。幕末、日本は開国に伴い国内の混乱が深まっていました。尊王攘夷運動が活発化し、1863年には長州藩が朝廷を動かし幕府に攘夷を実行させ、関門海峡を通る外国船を砲撃しました。これが下関戦争の原因となり、翌年、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの艦隊が長州藩の下関砲台を攻撃しました。
また、1862年には生麦事件が発生し、これが原因で翌年薩英戦争が勃発しました。1866年には坂本龍馬の仲介で薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、倒幕の動きが加速しました。1867年、15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上する大政奉還を行い、続いて王政復古の大号令が発せられました。翌年、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が始まり、新政府軍が勝利を収めました。江戸城は無血開城し、最後の戦いとなった五稜郭の戦いで旧幕府軍が降伏し、江戸幕府は滅亡しました。